先日,深夜に友人と話している際に「スライドのフォントに結局 Noto Sans(≒ 源ノ角ゴシック)を選んでしまう」という話題が出ました*1.Noto Sans がオープンソースであり,Google スライド等のアプリケーションで最初から使用できるという理由も勿論あるのですが,個人的にはそれだけが理由でないように感じます.
ときに,プレゼンテーション用のスライドにはどのような書体が適しているのでしょうか? 遠くから見えるように,視認性が高いフォントを使いましょう! ――という教科書的な回答はさておき,これは結構難しい問題に思えます.というのも(特に,洒落た発表ではなく研究発表のようにお堅い)スライドは,視認性のほかに,ある主の無味乾燥さが求められるように感じるからです.個人的には,「視認性」「ニュートラルさ」「デフォルト感がない」の 3 つを兼ね備えた書体が適切であると感じています.このあたりに関して雑感を書いてみます.
スライドのデザイン,Noto Sans を選ぶと負けたな……という気持ちになるが結局選んでしまう Noto Sans を見ると「デザインに関心はあるが我は強くない」みたいな印象を受ける
— いなにわうどん (@kyoto_inaniwa) 2024年10月1日
視認性
大原則として,遠くの聴衆からも文字が見えるように,スライドには視認性が高い書体を使うべきです.視認性と似た用語に「可読性」がありますが,こちらは似て非なる概念を表します.「視認性が高い」が遠くから見た際にパッと認識できること(見やすさ)を指すのに対し,「可読性が高い」とは,長時間読んでも疲れにくいこと(読みやすさ)を指します*2.スライドやサインシステムとして見やすい書体が,必ずしも本文書体に適しているわけではないので注意が必要です.
この時点で,明朝体等の抑揚が著しい書体や,デザイン性の強い書体は排除され,やはりゴシック体にスコープは絞られてきます.スーラ(フォントワークス)等の丸ゴシック体もありかもしれません.近年であれば,Windows や Adobe Fonts でも利用可能な UD デジタル教科書体(タイプバンク)も良い選択肢であると思います*3.
さて,視認性が高い書体の代表格としては,新ゴ(モリサワ)や ニューロダン(フォントワークス),それらから派生した UD 書体等がまず思い当たります.一方,それらをスライドに使用するにはやや抵抗感が強く,尻込みしてしまうのです.
ニュートラルさ
今や和文書体の総数は数千を超えると言われており,一括りにゴシック体といってもそのデザインは千差万別です.ここでゴシック体のスタイルは,「オールド」↔「モダン」の軸を用いて頻繁に整理されます.モダンゴシックはフトコロ(骨格の内側の空間)が広く,また字面も大きく(文字の形が大きく見える)設計されています.オールドゴシックは逆の性質を持ち,モダンゴシックの対極に位置します.
一般にオールドゴシックは可読性が高い反面,視認性が低い傾向にあります,対するモダンゴシック体は可読性が低い反面,視認性は高くなります.さすれば,前述の通り視認性が求められるスライドにはモダンゴシックを使用することが合理的なように思えますが,ここでも迷いが生じます.モダンすぎる書体は「ポップ」で「楽しげ」な印象,あるいは「必要以上の力強さ」を与えかねないのです.書体選びには,視認性や可読性といった実用面の他に,書体が持つ表情や機微を考慮する必要があります.
モダンゴシックの始祖とも言える書体に,ゴナ(写研)が存在します.大きい字面,現代的な骨格,極太のウェイトを有するこの書体は広告等で爆発的な流行を見せ,現在でも JR 東海のサインシステム等にその姿を見ることができます.新ゴやニューロダン,M+(フリーフォント)といった今日のモダンゴシックは,ゴナよりは柔らかな表情を持つものの,ゴナの影響を十分に受けていると考えられます.
こうした背景もあってか,モダンゴシックは文字自体が十分に個性を持ち,文字自体が主張をします.入念に作り込まれたデザインやサインシステムのデザインに対してモダンゴシックは十分に調和しますが,一方で簡素なデザインや堅実な内容に対しては,文字だけがやや浮いてしまうな印象を受けます.多くの状況では,スライドのデザインに膨大な時間を費すことは現実的ではないため(あるいは,堅実な内容に凝ったデザインが相応しくないという場合もあります),簡素で落ち着いたデザインに対して「浮かない」書体選びが求められているのでしょう.
ここで注目すべきが,オールド ↔ モダンの中庸を行く,「ニュートラル」な書体の存在です.視認性が高く,かつ文字自体の個性が強くない書体を選択することで,文字が「浮く」ことなく,我の強くない整然としたスライドが実現できると考えます.
デフォルト感がない
ニュートラルな書体の代表格として思い浮かぶのは,ヒラギノ角ゴシック(SCREEN)です.ヒラギノは透明感に溢れた大変美しい書体であり,Apple 製品の標準フォントとして採用されているほか,高速道路の標識*4やサインシステムの書体としても広く日常に浸透しています.一方,近年では動画のサムネイル等に使用される機会も多く,YouTube でヒラギノ角ゴを目にすると時折「デフォルトで指定されたフォント感」を覚えることがあります*5.特に,組版やカーニングが不適切であったり,十分な調整がなされないままヒラギノ角ゴが使用されている光景を目にすると,Pages や Keynote の標準テンプレートを用いて制作物のように受け取ってしまう場面は少なくありません(テンプレートが悪いと言っているわけではないです).
類似の事例として,游ゴシック(字游工房)が挙げられます.游ゴシックは Windows 8.1 から標準搭載されており,Microsoft Office 等では標準フォントとして使用されています.Windows で高品質なフォントが使用可能となったことは大変喜ばしい反面,今度は游ゴシックを好みでない*6と感じる人が一定数散見されるようになりました*7.書体に罪はありませんが,どれだけ美しい書体であっても幅広く使用されるようになると,誤った印象を残したり,ある種の「デフォルト感」を与えたりしてしまうのかもしれません*8.
ヒラギノや游ゴシックを制作された鳥海修氏は「水のような,空気のような書体を作りたい」と度々話されています.ヒラギノ角ゴシックや游ゴシックが十分に浸透してその言葉が現実のものになった現在,「デフォルト感」を打ち消すために,OS 標準の高品質なフォントに代わる選択肢として,Noto Sans が選ばれるようになったのではないでしょうか.そしてみんな Noto Sans を使っているなら自分もと伝播し,スライドの定番フォントとしての地位を築きつつあるように感じます.今後,Noto Sans が一層浸透した際に,Noto Sans がユーザからどのような受け止め方をされるかは大変興味があります.
この現象は Web フォントにも散見されます.近年の Web フォントは専ら Noto Sans 一強の様相を呈していますが,この背景には「デフォルトのフォントは嫌だが,追加でサービスを契約するほどではない.機種の統一をしたい」といった心理が働いているように見えます*9.
Noto Sans に代わる選択肢はあるか
これまでに掲げてきた「視認性」「ニュートラル」「デフォルト感のない」の条件を満たした書体は,何も Noto Sans に限定されません.
残念ながら自分は持っていないので使えないのですが,AXIS Fonts(タイププロジェクト)やたづがね角ゴシック(Monotype)は大変良い選択だと思います.NHK ニュース等で永らく用いられてきた ニューセザンヌ(フォントワークス)は,オールドゴシックとモダンゴシックの交差点に位置するような書体で大のお気に入りです.近年リリースされた あおとゴシック(モリサワ)も同様の系統を汲む書体で,A1 ゴシックの影に隠れている雰囲気は否めませんが,もっと注目を集めても良い書体だと思います.写植時代の終末期に登場した 本蘭ゴシック(写研)も,ニュートラルなフォントの先駆けのような存在で非常に好感が持てます.OpenType 化を望むばかりです.
*1:Morisawa Fonts,LETS,Adobe Fonts の書体群も使用可能な環境の中,あえて
*2:読みやすく.伝わるデザイン.https://tsutawarudesign.com/yomiyasuku.html
*3:ただ,全体に使うとやや圧迫感を与えるほか,児童向けスライド感が出てしまう点は考慮が必要でしょう
*4:東日本高速道路株式会社,中日本高速道路株式会社,西日本高速道路株式会社.より視認し易い高速道路案内標識を目指した標識レイアウトの変更について.
*5:放送のテロップにヒラギノが使われる機会は必ずしも多くないように感じます(ないわけではありませんが).YouTube はアマチュア的な編集が好まれるプラットフォームでもあるため,そうした意味では適切なのかもしれません
*6:私はそうは感じませんが…… Windows の汚いアンチエイリアスとの相性の悪さも影響していそう
*7:スライドへの可否で言えば,游ゴシックはオールド寄りの書体であるため,必ずしも適切ではない気もしますが……
*8:同様の現象は小塚ゴシック(アドビ)や,ダサフォントの代名詞となってしまった創英角ポップ体(創英企画)にも該当すると考えます
*9:パフォーマンスやライセンス等の事情も当然あるとは思います